クソの誉れ 第六十七代リーダー長 三河 奎介

こんにちは。

 

一橋大学体育会應援部第六十七代リーダー長を務めます、三河奎介と申します。

 

同期部員が唐突に「引退ブログやりたい」と言ってきたのは二週間ほど前の話ですが、未だに何を書けば良いのものか皆目見当もついておりません。ですが、少なくとも私が記す最後のブログになりますので、いつか應援部を憶ったときに「ああこんな日々だったっけな」と思い出されるような備忘録的立ち位置になればと思います。少し長くなりますが、お付き合いいただけますと幸いです。

 

気づけば應援部に入部して、もう三年半ほどの月日が流れていることに未だ驚きを隠せません。今では偉そうに下級生に罵声怒声を浴びせる私ですが、一年生のときの私は所謂クソでした。よく言えた口だな、と思われて致し方ない程に当時の私の出来損なさはずば抜けておりました。

新歓活動にも一切顔を出しておらずコミュニケーション能力が欠落していた私は、ある日偶然食事処で隣に座った先代リーダー長河野先輩にお誘いいただき、断ることもできず應援部へ入部するに至りました。そこから怒涛の日々が始まりましたが、私は劣等感に苛まれたまま最初の一年を過ごします。というのも、私は同期リーダー(当初は五人おりましたが、ここでは白子と野沢の意です)と比較して何の取り柄も持ち合わせておりませんでした。野沢は各体育会団体へ既に友人が多く、白子は他大学応援団と密な関係を早々に築いておりました。そんな二人と比べて私は、持ち前のコミュニケーション力の低さで全く外部に繋がりを持てず、應援部員としてのキャラクターが一向に確立出来ませんでした。応援に行っても演舞祭を拝見しても、誰がやっているのかも分からず、正直暇だし苦痛と感じることが多かったように思います。また高校で緩い雰囲気の部活動を経験した私は、應援部の礼儀もいまいち腑に落ちず、「ナチュラル粗相マシーン」という屈辱的なあだ名を付けられておりました(当時はそのキャラ付けさえ嬉しく、粗相の傾向が加速したようにも思います)

このように非常にレベルの低い應援部員だった私は、何か一つでも自分の取り柄として誇れるものを作りたいと常々思っておりました。そこで私はリーダーとしての技術を磨き、全国で最も上手いリーダーになろうと思うに至りました。誰かがそれを見て評価してくれるから、というわけではなく、ただ自分が上手いと自分で思えていれば、それは部を続ける動機になるだろうという、非常に個人的な思いからです。そこからようやく活動(主に練習)に熱が入るようになりました。一年生の一橋祭まで時間は飛びますが、その甲斐あってか私は学年演目のセンターを任せてもらえるに至り、何とか一つの成果は果たせたと満足すると同時に、部員として本当に大切なものを幾つも持たないまま学年が上がってしまうことを非常に不安に思っておりました。当時の私は、ただ練習だけ頑張っているパフォーマーに過ぎませんでした。一つ上の先輩方は応援から練習まで凡ゆる活動の場面で私をフォローしてくださいましたので、そのような大きな存在には今の自分では決してなれないと、お先真っ暗な状況に絶望をしておりました。

 

かと思えば、そこからの二年間はコロナ禍で満足な活動はできませんでした。コロナ禍はもちろん悔しいことの方が圧倒的に多いですが、私個人としては助かった部分が幾つかございました。

それは体育会団体との繋がりについてです。前述の通りこの時点で各体育会団体と何の繋がりも持っていなかった私は、応援の場において先輩として後輩に振る舞わなければならないことが本当に嫌でした。近くで野沢の存在を見ていたからこそ、そんな後輩が入ってきたときに自分ができる指導なんて一つもない、と知っていたからです。しかしコロナ禍で応援に行けなくなったことでその機会も消え、内心喜んでしまう自分がいました。

それと同時に、対面でのコミュニケーションが苦手だった私は、コロナ禍を利用して体育会団体をもっと一方的に知ろうという思いに至りました。対面で話すことをそもそも許されない環境は全員一律に課されたものであり、関係性を個人単位で深めるのは難しいなか、ホームページやSNSをこまめにチェックして団体や部員に詳しくなれば、何とかコロナ禍が明けたときに同期との差が埋まっているかもしれないと思いました。そういった動機から、コロナ禍を通じて頻繁に団体の情報をチェックし、部員や背番号、ポジションを頭に叩き込みました。この段階では、ただ私の暗記に留まっており、部に何の還元もできておりませんでしたが、漸く應援部員としての素養が少しだけ持てたように思えて嬉しかったのを覚えています。

 

そんなこんなで應援部に入って二年と七ヶ月が過ぎ、昨年の十二月に私はリーダー長に就任いたしました。もちろんそれまでの間に多くの葛藤や出来事があったのですがそれぞれを明細に書いていると、ただの伝記になってしまいますし、明らかに長過ぎるので割愛いたします。

 

つまり言いたかったことは、クソの一年坊が成長できたか己でも分からない部分があるまま活動の責任者を張ることになってしまったということです。もちろんそれまで全ての幹部の方が完璧であったとは思いませんが、明らかに私は未熟でしたし、欠陥品でした。

 

それから今までの一年間はあまり覚えていません。毎日が怒涛の如く過ぎ去り、その場の想い出に一喜一憂する時間が無くなってしまいました(私が現時点で卒業まで26単位残しているのも忙しさの原因の一つですが)。ですが、クソの私には見合わぬ程の贅沢な経験を数多くさせてもらったと思います。入学式での校旗掲揚や三商演舞会、各体育会の応援、一橋祭ステージなど、近年では許可されなかった多くのことが漸く復刻できた一年でありました。

正直、私はあくまで個人として、これを手放しで喜べません。私より遥かに真摯に部に向き合い、字義以上に「應援部員」であった先輩方を差し置いてこのような光栄、私如きクソが味わって良いものだと未だに思えません。六十五代、六十六代の先輩は引退した今でもステージや応援にも足繁く通ってくださり、お褒めのお言葉を投げかけてくださいますが、その度に私は嬉しさと同じくらい自責の念と心苦しい気持ちで押し潰されそうになります。ですが、それはもうひとえに私個人の未熟さ甘さ故でありますので、押し殺して活動に邁進するほかございません。個人の感情は排斥し、六十七代幹部としては、コロナ禍以前を知る最後の代として伝えられることが増えていることは嬉しい限りであります。

凡ゆる活動の最高責任者であるリーダー長を、私は自ら望んで名乗りました。何故ならリーダー長を知ったつもりでいて、実は何も分かっていなかったからです。もし私がその重みを本当に知っていたら結果は違っていたかもしれません。就いた当時は理解していなかった沢山の重みがこの役職にはあると、この一年を通じて本当に感じさせられます。そしてその重みは、リーダー長を務める中で歴代リーダー長を務められた多くの先輩方の葛藤や努力を感じることでやっと認知できる重みであるように思います。恐らくその感じる重みは人によって色が違いますし、どのようなリーダー長を志すかによってもその質は異なるでしょう。少なくとも、その重さは未熟な私にとって、未熟であることを改めて思い知らされる重責であったと同時に、限りない「誉れ」でございました。そしてその誉れ高い重さを知るにつれ、リーダー長を表す身としての私の振る舞い方や行いもこの一年間で変わっていったように思います。漸く対面で会うことが可能になった各体育会部員との交流は、コロナ禍の努力が一部身を結び周囲と遜色違わぬほどまで深化出来ましたし、東京六大学や全日本学生応援団連盟のリーダー部と多く繋がりを持つことができました。また、様々な場で私個人のリーダー技術をお褒めいただくことも多く、それまでは自己満足で磨いていた技術が、団体全体に寄与する一要素になっているように感じられて光栄でした。

三年ぶりの対面開催が実現した本年度の一橋祭ステージには例年以上の数の先輩方や他大学応援団の皆様が観覧にいらしてくださいました。本当にありがとうございます。それは弊部がコロナ禍を経ても多くの人から愛されている団体であることを現時点で確認することができたと同時に、私個人といたしましては、未熟な私がここまで踠き続けてきたことの一つの結実であると勝手ながらに感じました。

 

私がこの應援部生活で最も如実に獲得した要素は、「繋がり」であります。前述のように各体育会団体や他大学応援団、OBOGの先輩方など、比較的広範な領域と個人的な接点を持つことが、特に直近の二年間で出来たように思います。そしてその繋がりの数とそれぞれの思い出は、クソだった私が大きく大きく成長できた一つの証左であると思います。リーダー長の重さを知ると共により多くの繋がりを求めた私は、その繋がりを味わったことで私の中の信念や行動に変化が生まれました。その信念をこのような場で発信することは差し出がましいため控えますが、未熟な自分に大きく変化が現れたのは、紛れもなくこの役職に就いたことで自分を知り行動したからです。決して私がこの成長を通して一人前になれたとは思いませんが、多少なりとも色々な意味で強くなれたように思います。未熟なりに何とか務めあげることが出来て本当に良かったと、心の底から思います。

 

多くの人に支えられた一年でした。

 

羅列しようとしても、多すぎて細かすぎて出来ませんでした。

感謝していると同時に、本人たちに感謝を伝えるにはまだ早いですね。まだ我々は引退しておりませんし、二週間弱の活動と一つの応援を残しております。悲願のアメリカンフットボール部の一部昇格をこの目で見届けて應援部人生を全うしてから、ゆっくりその感謝を伝えていこうと思います。

 

長文になってしまい、申し訳ありませんでした。クソがクソなりに足掻いて考えて動いた結果、この一年間は矮小な私にとっては身に余る大きな誉れとなり、部にとっては非常に大きな意味を持つ一年になったと思います。その一年に、リーダー長として関われたことを光栄に思います。

 

 

次の引退ブログは野沢ですね。

幹部の中でも、西間と野沢の二人には気の置けない仲として特にお世話になりました。本当にありがとう。

ブログよろしくお願いします。

 

一橋大学体育会應援部 第六十七代リーダー長 兼 振橋会渉外 兼 車両責任者

三河 奎介