ありのままの応援部員 第六十三代渉外 杉山 健人

こんにちは、本年度渉外を務めます杉山健人です。

先の土曜日に、一橋祭にて「一橋祭ステージ2018『毎日頑張る皆様へ! ~完全燃焼 應援部~』」を行いました。

天気にも恵まれた当ステージは、保護者の皆様、OB・OGの皆様、体育会をはじめとする多くの一橋生、渉外の皆様、そして国立にお住いの方々…というように本当に多くの方々に見ていただき、いかに多くの皆様に支えられているかを改めて実感しました。

私は渉外という役職を務めているので渉外に関して述べさせていただくと、関東関西関わらず本当に多くの大学から多くの方々が見に来て下さり、一緒にステージを盛り上げてくれました。少しでも見に来てよかったと思えるステージになっていたら幸いです。

 

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最後の一橋祭ステージ、それは私がずっと憧れてきたものでした。

 

2015年、1年生の時の一橋祭ステージの応援メドレーの最後に、第60代幹部の方々が多くの方々に花束をもらってその4年間を称えられている姿を、私はバックとして見ておりました。そしてそれ以来その光景はふとした瞬間に蘇るようになり、あの日憧れたあの光景に自分が立つ日というものを夢見ておりました。

 

そしてその日から約3年、ついにその瞬間がやってきました。

 

実際にやってみるとあっという間で感動するほどの余裕などはありませんでしたが、引退後振り返る中で少しずつ浸れればなと思います。

 

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さて、これは私にとって本当に最後の部員日記です。ここで回ってきた最後の部員日記、ありのままの「自分」を書きたいと思います。

もちろん残り1か月大切な活動が続きます。私は1歩も立ち止まりませんが、それを分かっているうえで、最後にもう1度部員日記が書ける運命に乗じてこういうことを書くことをお許しください。

 

 

 

私が応援部に入部するということは、大きな挑戦でした。向いているところは少しもありませんでした。そもそも中学高校でやる気がなくなったという理由でアーチェリー部を辞めている身です。それより数億倍しっかりしていて数億倍厳しい応援部なんか向いているわけがないのです。

応援部との出会いは、たまたま友達に誘われた応援部の履修説明会でした。これは京都大学応援団の某同期も言っていましたが、男子校に6年間居た身です。私の新歓担当が当時2年生だったチアリーダーの先輩だったのですが、女性の先輩に優しくされていい気がしないわけがありません。履修説明会等を経て、その後も当初は存在も知らなかった応援部の新歓に顔を出すようになり、部員の方々とのご飯もたくさん行きました。そして応援部の新歓に行けば行くほど、応援部がいかに温かい団体か実感して、入る入らないに関わらず、本当に好きな団体になりました。

今思うに、デモンストレーションを見たり練習体験会に行ったり応援風景を見たりして、あーかっこいいなとは思ったかもしれませんが、当時はそれら1つ1つに自分の4年間をかけることを考えるほど熟慮していなかったと思います。ただ、半ば運命的に1つの体育会団体に出会った中で、まともに体育会をやった経験がない者が体育会の団体を一本の軸にやりきる最後のチャンスがこの大学生活かもしれないという想いと、没個性で何にも武器や取り柄がない自分がまた1つ新たな壁を乗り越えて新たな自分を見つけるにはとても良い団体かもしれないという想いと、新歓期の約1か月関わる中で本当にこれ以上に賑やかで温かくて楽しい団体はない、という想いで、私は2015年4月9日に第1号部員として入部宣言をしました。正直どんなことが待っているか全然わからない状態で不安がかなりありました。けれど、私は部員全員の前で入部宣言した時に心の底から喜んでくれた先輩の皆様の光景が今でも忘れられません。こんなにも自分を1人の部員として迎えてくれる温かい団体があるのかと思いました。(入部の数か月前に当たる大学受験で私はひどく精神をやられていたのでその温かさはとても大きく感じられました。)

私は、辞めずに4年間続けることを堅く心に据え、応援部生活をスタートさせました。

 

入部してから春シーズン、大変なことばかりだったと思いますが、辞めたいと悩むことはありませんでした。疲れて帰って寝ぼけて親に絶叫挨拶をするほどに神経はすり減っていたのですが、部活以外にもクラスのイベントがありましたし、悩んでいる暇もなかったと思います。そして迎えた三商、ステージに関しては嬉しいこともあり悔しいこともあり、それ以外に関しても衝撃的なことの連続でしたが、渉外と出会い後々自分の応援部生活において非常に重要になる三商というイベントを初めて経験したという点で忘れられないものとなりました。

秋シーズンは、少し活動に慣れてきた点もあったからか、苦しむことが多かったです。応援シーズンに入る中でまだ「応援」というものに自信がなく、ノートに自分が行った応援の勝敗をつけてみて自分が行った応援がどれくらい勝てているのか把握するなど、今思えば未熟ですがなんとか応援部員たる自分が応援で何ができるのかを見つけようと必死でした。辞めたいとは思わなかったのですがそれらに付随してうまくいかないことも多く、自分の存在価値を見失っていました。そんなときに訪れたのが一橋祭ステージでの司会の話でした。1年生で司会をやるということは資料がある過去10年ほどを振り返ってもなく、かなり挑戦的でしたが、あのとき司会を務めることが出来たことで1つ新たな自分を見つけることができました。司会大役は自分の中で思い入れの強いものの1つとなり、本年度の一橋祭で私が司会大役の1部を務めることをあえて立候補したのもそれらの想いや3年前一橋祭ステージにて前半の司会大役を務められた長野さんへの尊敬の意があったからです。

 

2年生になりプチ三商及び七忘2次会に参加しました。ここで多くの渉外と交流出来たことが渉外への想いをさらに強くしました。「同業者」足る渉外が全国にこんなにおり、それぞれ1年間の活動を経てこんな想いを持っている、それらを語り合うなかで彼らの存在がとても心強いものに感じられました。夜通しで話し、尽きることはありませんでした。

2年生は、1通りの活動を経験しているかつ下級生ということで馬鹿になれて楽しむことができた学年だったと思います。(かなり美化されていますし練習等は死ぬほどきつかったですが、振り返って一番楽しかったのは2年生だと思います。)

やはり三商は大きなイベントでした。1年生の時は「衝撃」で終わってしまった三商が「楽しい」ものとなりました。まずは自分自身が三商を楽しめたことが良かったのだと思います。真剣なことからくだらないことまでわざわざ4日間もかけて馬鹿になってやるからこそ見えてくるものがあり、いまだに記憶に残っているのだと思います。

当時の活動目標「体現」が特に心に響いたというのもあったかもしれませんが、応援やステージを通して「想いを体現する」ということに多少なりとも向き合おうとできたのは2年生だったと思います。まだまだ非常に未熟ではあったと思いますが、そこは1年生の時とは明確に違う点ではありました。

2年生は良くも悪くも応援部に染まり、客観的な視点は甘かったと思いますが、私にとってはやはり1番部が大好きで部員が大好きでオンオフ含めて大好きな1年だったと思います。やっている当時はもちろん不平不満やらきついことやらもちろんありましたが今こうして振り返って「あの1年間が悪い思い出」ではなく「良い思い出」としてあることが大事で、それらは「きついけど大事なこと」「きついけどそれを乗り越えてよかったこと」だったからこそなのだと思います。

 

3年目は準幹部という立場になり馬鹿になって楽しんでばかりはいられなくなりました。しかし渉外補佐や広報補佐等補佐役職を務めて自分で誇りや責任を持てたことでまた新たな応援部の楽しみを見つけることが出来たと思います。

2年生の時に「楽しい」まで行った三商は「発見」になりました。もちろん楽しかった三商でしたが、それ以上に後輩と接する中で「昨年よりも楽しい」と言う者、その成長が見られる者などを見ることで、このイベントが、もちろん内容は多少変化しますが大枠として間違っていないということを確信しました。そして心の中で、来年その三商を率いて後輩に「伝え」未来に「繋げ」ていくために、その役職に就くのは自分だと強く思いました。

 

そして幹部となりました。

先述の通り幹部はまだ終えていません。しかも下級生時代以上に膨大になりそうです。だからまだ振り返るのはここまでにしておきたいと思いますが、1番初めに触れた憧れの幹部としての一橋祭ステージに立ち、それも過ぎ去っていきました。残りの期間、それぞれの役職、そして1幹部として1応援部員として出来ること・やるべきことをやり通していきたいと思います。

 

最後に。

自分を振り返る中で改めて見えてきたものを少しだけ残そうかと思います。

 

1歩ずつでいいのです。今の部の状況ではそうも言ってはいられない部分があるかもしれないですが、それ以外に関しては学年に合わせてその折々にいろいろなことを感じて1つずつ成長していけばよいと思います。だから、私は、応援でもステージでもその他活動でも1年生の時に衝撃で終わってまだ意味を見いだせないことがあってもいいと思います。2年生3年生の時にまだ答えに辿り着かなくても何か感じる、意味を見出すまではいかないにしても楽しい、そういうことがたくさんあってもいいと思います。もちろん答えが見つからない中で諦めて皆が去ったらおしまいなので、正直ここは本当に時代や部の状況によって柔軟にしなくてはいけないところだとは思いますが、楽しみ方や正解は与えられるものではありません。自分で感じて自分の正解を作っていくのです。

最後の一橋祭ステージに向かうときに、ふと自分はとても大きな団体にいたということに気が付きしました。たくさんのことを経験してたくさんのお世話になった方々・仲間が出来、彼ら彼女らに見てもらえるこんなに大きなラストのステージに立てることは自分にとって紛れもなく正解でした。

私は応援部員たるもの驕ることはいけませんが卑下する必要はなく、「楽ではない楽しさ」を求めることが重要だと常々思っておりました。だから、驕るつもりはありませんが卑下するつもりもないのですが、それを踏まえて私はどんな友人よりも誇らしい4年間を過ごしていると思っております。言葉だけ、しかも要所をかいつまんだだけのこの文章では語弊や不十分な点があると思いますが、それでもこれが私なりの応援部生活の4年間です。そして幹部たるもの堂々と後輩に言葉を残すだけでいいものをわざわざこうして長々と振り返っているところまで含めて私なりの正解です。

残り1か月、現在進行形の感情を完了させるため悔いのないように取り組んでいきます。

そして、私だけではなく、部員みんなが、日常では不平や不満・辛いことがあろうとも、応援部を好きでいてくれる・好きになれるように、自分にできることを行ったり伝えていきたいと思います。

 

残り1か月を全うし、「誇らしい4年間を過ごしている」ではなく「誇らしい4年間を過ごした」と言います。その時にまた。

 

次は奥野に回します。